寺院案内と葬儀・法要ガイド 蓮の華

太平山 安国寺・寺院詳細

愛知県 額田郡幸田町

曹洞宗

太平山 安国寺

愛知県額田郡幸田町大字坂崎字田中下51番地
Map

0564-62-1601

ホームページ
http://mikawa-ankokuji.com/

ホームページ2
http://taiheiryou.com

葬儀形態
家族葬 一般葬

対応法要
葬儀 通夜 中陰法要 回忌法要 盆法要 納骨法要

駐車場 : 10台

みどころ

庭園

ご利益

夫婦円満 子宝 安産 水子供養 商売繁盛 学業成就 長寿 病気治癒 厄除け 交通安全 人形供養

習い事・体験

坐禅 写経

各種相談

法話 悩み相談 祈祷 墓地・納骨堂 永代供養墓「太平陵」

太平山 安国寺紹介

安国寺由緒及び略縁起
太平山 安国寺

当山三河安国寺は、暦應二年(西暦1339年)、時の征夷大将軍、贈正一位鹿苑院殿相國公足利尊氏及び直義が、国分寺、国分尼寺の例にならい、各国ごとに建立した寺院で、建立当初は京都西山の「等持院」を本山とする臨済宗でありました。開山は夢窓疎石禅師であります。
足利氏滅びて後、幾度か戦火に遭いことごとく灰尽と化し大破しました。しかし、境内良く残り寺伝に「東西十町四方ありと…」記されております。当時、寺には住職無く荒れるに任され、戦国乱世の頃は武人が隠れ住み、読書をもって自養せりと伝えられております。
徳川時代、将軍家綱の万治年中に愛知県蒲郡市曹洞宗天桂院三世心外大怡大和尚を迎え曹洞宗に転派しました。以後中興開山七代法雲閑察大和尚は住職する事五十年に及び学徳あり、その名高く村中の男子儘その筆子であったと伝えられております。特に時の領主「大久保彦左衛門忠経」は帰依すること厚く、寺の装いを新たにしました。現存する本堂は当時の建物であります。九代目道戒慧光大和尚の時、法地開山となり十七世現住に至たっています。
鎮守として薬師如来、荼吉尼尊天、聖観世音菩薩、十二支守本尊をお祀りしています。

毎年春には薬師堂前の桜がきれいです。
太平山 安国寺

●安産の守護神として霊験あらたかで、祈願の善女人には霊水を授け、難産を遠ざけ安産に導き、生まれたお子様の成長を守護し、又善男善女の身体健全、心願成就のお薬師様として有縁の方々に広く信仰されております。
●安国寺には、「弘化二乙巳歳吉祥日、御寄付御領主ヨリ、太平山現住蟠龍記之」と書かれた「稲荷堂御因縁起録」が残されている。弘化2年は西暦1845年、筆者の現住蟠龍は明治4年4月26日示寂された十一世雲峰蟠龍和尚のことである。現在、稲荷大明神は本堂内に安置されているが、もともと入って行った右側にあった。縁起録には次のように記録されている。数年来稲荷社は無位職であり、永井の里に住む高橋氏の老婆某女(一名おやまさんともいう)はこのことを大変苦に思っていた。ところが弘化2年正月2日の夜、御霊夢が枕頭にあらわれ、「権現公御守護の稲荷尊ぞ」と談じられた。このころの稲荷堂の大きさは六尺四方であった。当時の代官職三浦権兵衛はこの話を聞き、正月29日に鳥居一宇を寄付した。これがそもそもの起りで、村民の志しをうけて老婆は、2月20日山城の国(京都府)伏見稲荷の御官羽倉摂津守殿へ参り、事の次第を申し上げたところ、聞き入れられた。3月9日御遷宮なり、正一位坂崎稲荷大明神が誕生した。この時は蟠龍和尚を初め、村中総出の大変な賑わいであった。8月? 24日に奥の院建立。9月20日、御手代の三浦安蔵に稲荷社再建の議を図り、弘化3年正月に「口上書」を江戸表に送り、同六月大久保彦左衛門忠良様より許しが出たため、稲荷社の再建が始まった。再建には1年と8ケ月を要し、弘化5年(1848)の2月20日に完成した。その間の村民の奉仕の絶大であったことが、綿密に記されている。同22日、平岩輿一郎御神鏡を寄付。そして22日御遷宮が行なわれた。遷宮の諸行事は27日まで続いている。嘉永2年(1849)、領主の忠良様より「坂碕稲荷社」の御額が寄付された。額の裏には、「嘉永二巳酉年八月中旬納之、大久保彦左衛門忠良士服部荘輔直親、三浦権兵衛安之、平岩與一郎方房、三浦保造金映」と記されている。そして嘉永5年6月には大久保家より、登藤に大の字の紋所を与えられている。(参照 坂崎郷土史 昭和56年10月15日 211頁)