寺院案内と葬儀・法要ガイド 蓮の華

神藏寺・寺院詳細

愛知県 名古屋市名東区

曹洞宗

神藏寺

愛知県名古屋市名東区一社3-11
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052-701-1746

ホームページ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~sisekiannnai/jinnzouji.html

駐車場 : 20台

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神藏寺紹介

二十七番札所 曹洞宗 神藏寺
神藏寺

創建は文亀元年(1501)足利九代将軍義尚公の家臣・柴田源六源勝重。
草創開山は福厳寺より勧請した雲岫麟棟大和尚。
薬師如来は石像で弘法大師の作と伝えられる。
日光菩薩・月光菩薩並びに十二神将は宝永4年(1707)に祀られる。
現在は大本山 永平寺直末。

ご本尊は 聖観世音菩薩
神藏寺

神蔵寺は、文亀元年(1501)、足利九代将軍義尚(よしひさ)の家臣・柴田源六源勝重(かつしげ/開基)により、一色城内(東)に創建された。
草創開山は、雲岫麟棟(うんしゅうりんとう)和尚で、春日井郡大草村(小牧市大草)の曹洞宗大叢(草)山福厳寺(ふくごんじ/1476年創建/毎年12月に行なわれる秋葉三尺坊の大祭での火渡り神事が有名)より招請した。
勝重は、柴田勝家の祖父(または曾祖父)と伝わり、文亀三年(1503)七月二日没した。戒名は、霊源院殿天信了運大居士。
天正十二年(1584)四月、長久手合戦で一色城は焼失、神蔵寺も兵火に罹(かか)った(焼けてはいない)。小牧においては、福厳寺諸堂が、戦の陣地を築くために秀吉軍によって破壊された為、末寺の神蔵寺堂宇を解体・移築した(「福厳寺記」による)。その為、神蔵寺は廃寺同然となった。
神蔵寺を平僧地(江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の寺格の一つで、最下位の小院/正式の住職がいない寺)に復興したのは、三世密傳空厳(みつでんくうげん)和尚だが、寺の建物はなく、僧は薬師堂(一色城址東)にこもって布教した。
慶安元年(1648)七月に、一色村に古くから祀られてあった薬師瑠璃光如来(一色村のルーツである一社橋南東の薬師畑に、おそらく行者堂のような小さな祠に祀られていた)を新造の宮殿(写真左/現在まで薬師堂内に残る薬師宮殿は、当時からのもの)に奉安した。
日光菩薩、月光(がっこう)菩薩、並びに十二神将は、宝永四年(1707)に祀られた。四世瑞岑豊雪(ずいしんほうせつ)和尚が、薬師堂を寛文五年(1665)三月に再建、五世桃翁宜仙(とうおうぎせん)和尚が、享保二十年(1735)、薬師堂を(城跡東から)現在地に移築した。
※ 『尾張徇行記』は、「享保十九年(1734)に薬師堂が現在地に移転した」と記している。棟札に「奉建立薬師堂享保二十卯年正月吉日」とあるので、おそらく享保十九年中に移転し、年が明けた正月に奉祝したのであろう。
宝暦九年(1759)、大店鰲雪(だいてんごうせつ)和尚を招請した。
宝暦十年(1760)、下津(おりづ/鎌倉街道と河川が交わる交通の要衝で、織田信長が登場するまで尾張国の中心地/現稲沢市)正眼寺(しょうげんじ/曹洞宗/当時神蔵寺本山/現小牧市)から寺社奉行に提出された証文に、「正眼寺末寺の神蔵寺内に、弘法大師正作と伝わる薬師如来があり、古来より33年目に本開帳(100日間)、17年目に中開帳(50日間)をしてきた。 今年は17年目で中開帳になるが、村方が困窮しているので、来年に延期させて欲しい(要約)」とあり、当時の一色村の様子が分かる。翌宝暦十一年には、村内に行者堂が建立されており、どうやら村勢は回復したようだ。
明和五年(1768)、法地再興を申し出た。 翌六年三月七日、江戸麹町秩父屋斎田孫七が金50両を寄進、本堂・客殿が現在地に再建された。以後、山号を龍華山と改め、大店和尚は法地(ほうち/曹洞宗における大本山・格地・法地・准法地の4つの寺格のうちの一つで、別格地でない普通の寺院のこと)開山となった。
大店和尚は、薬師堂に「枯木堂(こぼくどう)」の扁額(へんがく)を掲げ、座禅堂として雲水(うんすい/修行僧)を起居させた。
更に、本堂脇壇に安産守護の子安一夜地蔵菩薩を安置し、薬類を売り庶民の救済にあたった。
十五世・久遠実成(くおんじつじょう)和尚は、神蔵寺が廃仏毀釈で廃寺になろうとしているのを慨嘆し、西枇杷島町字南問屋町初代横井善三郎(中興開基=教善院殿春山禅定大居士)の招請で、神蔵寺の中興開山となった。
十六世・常光祖鑑(じょうこうそかん)和尚は、明治37年、横井家の篤志(とくし)により三十三観音石像を奉安した。
永平寺直末(じきまつ)十八世・太眞正憲(たいしんしょうけん)和尚代に、諸堂が一新された。
昭和26年5月、鐘楼堂が再建。昭和34年、茅葺きの薬師堂を、境内にあった弘法堂(大正初期、昔「一色鉱泉」という温泉があった一社中根通り付近から移設)と合体させ、瓦葺きとして再建。同年の伊勢湾台風によって倒壊した山門を再建。昭和45年、木造本堂を鉄筋造にて再建した。
昭和45年、大本山永平寺の直末となった。