寺院案内と葬儀・法要ガイド 蓮の華

本證寺・寺院詳細

愛知県 安城市

真宗大谷派

本證寺

愛知県安城市野寺町野寺26
Map

0566-99-0221

ホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/honsyouji.htm

駐車場 : 10台

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みどころ

文化財 庭園

本證寺紹介

雲龍山本證寺は、浄土真宗大谷派の三河触頭三ヶ寺(上宮寺・勝鬘寺・本證寺)の一つ。
本證寺

本證寺 概要
鎌倉時代、慶円(きょうえん)上人が創建したと伝えられています。
永禄6年(1563)~7年(1564)岡崎市の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに三河三か寺として知られ、三河一向一揆の時には、家康と敵対しました。
三河一向一揆は家康配下の侍が寺内の不入権を侵したことが発端となり起こりました。
本願寺門徒であった家康家臣侍の一部が離反し寺院に立て籠もりましたが、鎮圧され、坊主衆と門徒侍は領国から追放されました。
境内は二重の堀と土塁に囲まれるなど城郭的防備に主眼を置いた伽藍配置になっており、「城郭伽藍」・「城郭寺院」とも呼ばれます。現在土塁は、一部が庫裏の北側に残存しています。
二重の堀のうち、内堀はすべて現存し、外堀は大部分が地中に埋もれていますが、近年の発掘調査によって詳細が明らかになりつつあります。
境内には県指定文化財の本堂〔寛文3年(1663)〕をはじめ、市指定文化財の鐘楼〔元禄16年(1703)〕・鼓楼〔宝暦10年(1760)〕・経蔵〔文政6年(1823)〕・裏門(1700年前後)
といった江戸時代前期から中期の建物が残ります。その他、聖徳太子絵伝(重文)など数多くの文化財を所蔵しています。
本證寺は鎌倉時代後期に慶円(きょうえん)によって創建されたと伝えられる真宗寺院です。
室町時代中期には連如の布教によって本願寺派に属し、岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに真宗三河三か寺として大きな勢力をもちました。
永禄6年(1563)秋ごろに起こった三河一向一揆では中心寺院として本願寺門徒を率い、徳川家康と戦いましたが、5か月後には破れ、三河は真宗禁制の地となりました。
その後天正13年(1585)に禁制が解かれると、本堂などの再建を果たし、江戸時代には三河触頭三か寺の一つとして再興を遂げ、その末寺は二百余寺を数えるほどの寺勢を誇りました。

本堂
本證寺の本堂は、本證寺の建造物群の中でも最も古く、寛文3年(1663)に建立されており、県指定文化財になっています。
柱は来迎柱を丸柱とするほかは角柱を用い、外陣(げじん・がいじん:一般の人々が礼拝する場所)内は1間(=1.818m)ごとに柱を立て、小壁(鴨居と天井の間の壁)を下ろすなど古式で閉鎖的な邸宅風の本堂です。
平成6年~9年にかけて保存修理工事が行われ、ほぼ建立当時の姿に復元されました。
その際の調査で、大規模な修理が宝暦年間、江戸時代後期、明治期、近年の4回行われたことが明らかになりました。

本證寺境内
本證寺境内は、平成27年3月10日に国指定史跡となりました。鎌倉時代(13世紀後半)に創建されて以来、700余年続く三河真宗の名刹です。
この間、様々な事跡を経ましたが、現在まで継承されていることに大きな価値があります。
特に注目される価値として、次の4点が挙げられます。

歴史
三河一向一揆の中心寺院であったこと、江戸時代において東本願寺派の触頭としての役割を担ったこと、「寺内」の景観や土地利用形態が今日まで継続されていること、地域に根差した真宗文化が評価されています。

堀や土塁などの遺構群
本證寺は、内堀・外堀という二重の堀に囲まれています。内堀の半分ほどは現在でも視認できます。あとの半分と外堀は地中に埋没しているものの、今日まで大半が破壊されること無く残存しています。土塁も内堀の内側に一部が残存しており、堀の基底部から土塁頂部までの比高差は5.4m程度あったことが確認されました。このほかにも地中に埋没している遺構は多くあります。三河一向一揆当時の堀と土塁などの多くの遺構が良好な状態で残存していることは、全国的にみても貴重です。

文化財
本證寺には、多種多様かつ膨大な文化財が伝わっています。本堂、鼓楼などの建造物をはじめ、聖徳太子絵伝や善光寺如来絵伝などの絵画、慶円上人坐像や聖徳太子立像などの彫刻、垣蔦文組椀などの工芸品や、門徒連判状などの書跡、教行信証などの典籍、このほか約9700点におよぶ文書記録類、天然記念物のイブキがあります。聖徳太子絵伝と善光寺如来絵伝は重要文化財、ほかのものも県や市の指定文化財となっています。

自然環境
庫裏の北側と西側にある雑木林は、土塁築造当時には存在しなかったと考えられますが、その後約450年の間、自生する樹木を伐採しなかったために雑木林となりました。本来であれば市内にはこうした雑木林が多数あったはずですが、明治用水開通以降の開削や、近年の土地改良工事によってそのほとんどが姿を消しています。この雑木林は昔から、地域住民の身近にある自然、里山として親しまれ、当地域における貴重な自然環境のひとつとなっています。
また、大門をはさんだ内堀には、赤と白の花をつけるハスが繁茂していました。その姿は明治32年(1899)まで遡ることができ、本證寺固有の景観のひとつでしたが、平成7年(2009)頃からハスが絶滅してしまいました。このハスを復活させるため、平成21年(2009)に市民ボランティア団体「本證寺ハスの会」が発足し、この活動のおかげで現在では見事なハスの姿が取り戻されています。

本證寺

本堂高欄の10ヵ所に取り付けられた擬宝珠には、『寛文三年』の年号と寄進者の氏名が刻まれています。